坂本龍馬の明治維新での活躍!おりょうとの新婚旅行や暗殺の謎は?
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幕末の歴史的人物は?と聞かれて真っ先に浮かびそうな人物は誰でしょうか?
明治維新の最中、幕末の動乱期に活躍した人物はたくさん存在しますが、その中でも際立っている人物として坂本龍馬がいます(*゚▽゚*)
坂本龍馬と聞いて、あなたはどのようなイメージを思い浮かべますか?
常識にとらわれない革命児、幕末の志士、凛と立つ有名な写真のイメージ等、いろいろな印象が出てくると思います。
今回の記事では、この坂本龍馬について紹介させていただきたいと思います。
では、早速、いってみましょう!!
坂本龍馬は1836年に坂本家に生まれました。
坂本家は豪商であり、お金で郷士という身分を取得したとも言われています。
下士とは言っても、龍馬は比較的裕福な家庭で育ったと言えますね。
幼少期のエピソードとして、こんなものがあります。
ある雨の日、水泳にいこうとしている龍馬が友人に出会い「雨なのに泳ぐのか」と聞かれたところ、「濡れるのに雨も関係ない」といって、何事もなかったかのように川に向かって泳ぎに行ったというものがあります。
龍馬の価値観が見え隠れするエピソードですね(*゚▽゚*)
龍馬が剣術修行で初めて江戸に発つとき、父から「修行中心得大意」と題する訓戒状を渡されます。
この訓戒状は、1.片時も忠孝の心(親に孝行を尽くすこと)を忘れずに、修行を第一とすること、2.道具につい目移りをして心を奪われてしまい、無駄遣いをするようなことはしないこと、3.色恋にうつつを抜かしてしまい、国家の大事を忘れて、心得違いを決してしないこと、という3か条を述べているものでした。
そして、この訓戒状を胸に刻んで、日々修行に勤しむようにと龍馬の父は戒めています。
この訓戒状をお守りとして、龍馬はこれを一生大切に保管したといわれています。
黒船が浦賀に来た際、龍馬も藩より動員されます。
龍馬は当初は攘夷思想でした。
攘夷思想とは、天皇を敬って、外国を外敵と見なし、この外敵の国家への侵略を撃退しようとする思想です。
しかし、異国文化にふれた龍馬は1年後には、攘夷とは逆の「開国」を考えるようになったのです。
特定の思いにはとらわれない柔軟な思考の持ち主なんですね(^O^)
そこで、話は飛んで薩長同盟に移ります。
龍馬の手配で、京都にて長州藩の桂小五郎と薩摩藩の西郷隆盛、小松帯刀らが会談し薩長同盟が結ばれることになりました。
(西郷隆盛が気になる方は→「西郷隆盛が5分で分かる!」)
始め薩摩藩と長州藩は、武力で討幕しようと考えましたが、龍馬は国内で戦争はいけないと考え、平和的な討幕と言える大政奉還を土佐藩に提案します。
徳川慶喜もこれを受け入れました。
そして、形式上、幕府が消滅したのです(*゚▽゚*)
薩長同盟の結果、討幕運動が成功し、明治維新に至ったとされています。
(明治維新について気になって仕方がない!という方は「5分で分かる明治維新」をぜひご覧ください)
また、龍馬と言えば海援隊も忘れてはいけません。
海援隊とは龍馬が結成した海上貿易をする組織で、軍事物資を主に輸送していました。
この海援隊に入れる条件は、脱藩者や海外への志があるということでした。
これはつまり既存の価値観にとらわれない人材を求めていたと言えるでしょう(*゚▽゚*)。
海援隊の制度として、稼いだお金は互いに分配するなどの平等精神もあり、当時としては非常に魅力がある組織だったと言えます。
この頃、龍馬は寺田屋事件に遭遇します。
この寺田屋事件とは、京都の伏見にある旅館の寺田屋で龍馬が伏見奉行所の役人に襲撃された事件です。
この事件は、犬猿の仲だった薩摩、長州の両藩が龍馬の仲介で薩長同盟を締結した直後に起こりました。
役人たちは改革派の龍馬を野放しにしておくと幕府にとって脅威になる!と判断して寺田屋にいた龍馬を急襲したのです。
この時に龍馬の命を救ったのが現場に一緒にいたおりょうという女性でした。
寺田屋でお風呂に入っていたおりょうは窓から奉行所の役人の姿を目撃します。
そして、おりょうはすぐにお風呂から飛び出して龍馬がいた部屋に危険を知らせに行きました。
このおかげで龍馬は襲撃に備えることができて、一命を取り留めることができたのでした(*゚▽゚*)。
寺田屋で龍馬と一緒にいたおりょうは、この時、龍馬の恋人でした。
では、おりょうと龍馬のなれそめについてここで少し触れておきましょう。
おりょうは、自分の母親と妹が住み込みで働いていた京都の河原屋五兵衛の隠居所にたびたび訪れていました。
そこで龍馬と知り合い、自由奔放なおりょうに龍馬は惚れて、2人は恋に落ちたと言われています。
寺田屋事件のあとに龍馬はおりょうとめでたく結婚します(*゚▽゚*)
そして、寺田屋で龍馬が負った傷の治療を兼ねて、2人は霧島温泉郷に一緒に旅行に出かけました。
俗説ですが、これが日本で最初の新婚旅行とも言われています。
晩年、龍馬は拳銃を武器として携帯していました。
しかし、1867年11月に近江家で中岡慎太郎とともにいるところを襲撃されて、龍馬はほぼ即死だったとされていますΣ(゚д゚lll)。
スミスアンドウェッソンの銃を携帯していましたが、発砲することはなかったようです。
さすがの龍馬も不意を突かれたというところでしょう。
なぜ龍馬が暗殺されたのか?
誰に暗殺されたのか?
・・・に関しては様々な説があり、歴史研究の対象となっています。
ざっと代表的な説を挙げてみましょう。
◆見廻組説
この説は定説とされているものです。
一般的に一番支持されている説ですね。
この見廻組説は、龍馬の暗殺の罪で捕まった大石鍬次郎が話した内容となります。
大石は、当初は新撰組の犯行だ!と言っていたのですが、その翌年に言ったことを変えて、見廻組の今井某達の仕業だと言ったのです。
そして、この大石が話した後に今井達も素直に犯行を認めて、刑を受けているのです。
ですが、実はこの後、当の本人である今井がすぐに赦免されたのです・・・
ここで少し怪しさが残りますね(._.)
今井がほんとうに犯人であればなぜすぐに赦免されたのか?
黒幕はうまく隠されているような気がしますね・・
◆薩摩藩黒幕説
この説も有力な説として支持されています。
薩摩藩の西郷や大久保が黒幕として関わったのではないか?とする説です。
当時、薩摩藩や長州藩は武力で倒幕をしようとしていましたが、龍馬の活躍により大政奉還が成立しました。
自分たちの手で倒幕をしようとしていたのに、龍馬が個人的にかたをつけてしまったため、このことに恨みを持つ藩士も多かったので、薩摩藩が黒幕として龍馬暗殺に関わったのでは?と考えられているのです。
(西郷隆盛が気になる方は→「西郷隆盛が5分で分かる!」)
◆土佐藩説
龍馬の身内である土佐藩士が犯人だ!とする説です。
龍馬の暗殺がずっと謎のままである・・という理由は
実は、身内が手を下したのでさすがにこのことは公表できない・・とされたというものです。
仮に身内だったとすれば、龍馬が隠れていたアジト等も筒抜けだったでしょうし、
暗殺をしやすかったということもありえます。
幕末の複雑な事情を察すると身内である土佐藩士が犯人だとする説もうなずけるかもしれません。
・・・
さて、あなたはいったいどの説が正しいと思われますか?
真実はもしかしたら龍馬のみぞ知るのかもしれません。。。
激動の幕末、そして明治維新の立役者としてその波乱万丈の人生を駆け抜けた龍馬。
この記事によって少しは龍馬の人生を垣間見ることができたのであれば幸いです(*゚▽゚*)
以上で坂本龍馬についての記事を終わらせていただきたいと思います。
最後までおつきあいいただきまして、ありがとうございましたm(_)m
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