武田信玄の年表や上杉謙信との関係&川中島の戦い等を5分で紹介♪
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今回の記事は、あの戦国時代の有名な武将、武田信玄について取り上げてみたいと思います。
武田信玄と聞いて、みなさまはどのようなイメージをお持ちでしょうか?
私にとっての武田信玄とは、まずかっぷくのいいプロレスラーみたいな信玄像が思い浮かびます。
そして次に、上杉謙信のライバルということと、百戦百勝とも言える戦の達人で、戦国時代でも有数の強い武将というイメージがあります。
(上杉謙信について気になる方はこちらまで♪→「5分で分かる上杉謙信」)
これから信玄について見ていきますが、たしかに戦国時代には「甲斐の虎」と呼ばれていて、周りの戦国武将たちは武田の騎馬隊を恐れていたそうです。
武田信玄は後世の人たちからも憧れられる武将の一人で、小説や時代劇、ドラマなどでもよく取り上げられています。
最近で有名なドラマは「信長協奏曲」で、信長も警戒している武将として登場します。
(この「信長協奏曲」について気になる方はこちらまで♪→「「信長協奏曲」のあらすじ&ネタバレ」)
では、そんな武田信玄についてこれから見ていくことにしましょう。
まずは武田信玄のお顔を拝見しましょう。
日本の歴史で習った信玄の顔は大きく分けて2パターンあります。
まずはこちら。
続いてはこちら。
一つ目のかっぷくのいい信玄像は、最近の研究では別人ではないか?とも言われています。
2つめの肖像画も教科書でよく見ていましたが、実は、ほんものの信玄として信ぴょう性の高い肖像画が他にあるのです!
その肖像画がこちらです。
この肖像画は、信玄の弟で画家でもある逍遥軒信廉が描いたものですので、実在の信玄の顔に近いものでしょうね。
しかし、1つめの顔のイメージが強いので少し違和感がありますが、年齢を少し重ねて、体重が増えれば1つめの顔にもなるような気がするのは私だけでしょうか・・・(*゚▽゚*)
では続いて、武田信玄の生涯をざくっと年表で見てみましょう。
◆武田信玄の年表について
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ーー1521年(1歳)ーー
武田信虎の長男として生まれます。
ーー1533年(13歳)ーー
上杉朝興(ともおき)の娘と結婚します。
なんと13歳で結婚って・・・戦国時代の婚姻ってめちゃくちゃ早いですね。。(*゚▽゚*)
しかし、翌年にこの奥様が難産のために亡くなってしまいます・・
ーー1536年(16歳)ーー
武田家が、駿河国の今川家と同盟を結びます。
ーー1537年(17歳)ーー
三条の方と再婚し、翌年には長男の太郎(武田義信)が誕生します。
ーー1541年(21歳)ーー
悪政をしまくっていた父の武田信虎を駿河国から追い出して、甲斐国武田家の17代当主になります。
ーー1543年(23歳)ーー
安国寺の戦。
この戦で、諏訪氏の一族である高遠頼継と組んで諏訪頼重を討ちます。
この結果、信濃国諏訪を平定することになります。
そして、諏訪頼重の娘である諏訪御料人(すわごりょうにん)を自身の側室にします。
ーー1546年(26歳)ーー
四男の勝頼が誕生します(*゚▽゚*)
ーー1547年(27歳)ーー
「甲州法度之次第」(こうしゅうはっとのしだい)という分国法を制定します。
分国法とは、戦国武将が領国内を統治するために制定した法令となります。
若干、27歳でいわば自分の国の法律を定めるってすごいですねΣ(゚д゚lll)
ーー1548年(28歳)ーー
上田原合戦にて、北信濃の村上義清に破れてしまいます。
同じ年に、塩尻峠の戦いでは小笠原長時を破ります。
ーー1550年(30歳)ーー
村上義清の戸石城(といしじょう)を攻めるが失敗に終わります。
しかし、翌年には信玄の家臣である真田幸隆(さなだ ゆきたか)の謀略が見事に成功して、戸石城を奪うことに成功します。
ーー1553年(33歳)ーー
第1回目の川中島の戦い。
ーー1554年(34歳)ーー
越後国にいる長尾景虎(上杉謙信)に対抗するため、子の義信と駿河国の今川義元の娘を結婚させます。
さらに娘を相模国の北条氏政に嫁がせて、相甲駿三国同盟を結びます。
相甲駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)とは、甲斐・相模・駿河を治めていた武田信玄、北条氏康、今川義元の3者による合意です。
ーー1555年(35歳)ーー
第2回目の川中島の戦い。
木曽の福島城の木曾義昌を降伏させて、信濃国のほとんどを平定することになります。
ーー1556年(36歳)ーー
第3回目の川中島の戦い。
ーー1560年(40歳)ーー
織田信長が桶狭間の戦で今川義元を破ります。
このため、相甲駿三国同盟を破棄して、駿河国の今川家への侵略を開始します。
まさに食うか食われるかの世界ですね。。Σ(゚д゚lll)
(織田信長について気になる方はこちらまで♪→「5分で分かる織田信長」)
ーー1561年(41歳)ーー
第4回目の川中島の戦い。
ーー1564年(44歳)ーー
第5回目の川中島の戦い。
ーー1565年(45歳)ーー
信玄の駿河国侵攻に対して反対する長男の武田義信と飯富虎昌は信玄に対して謀反を起こそうとしますが、信玄は彼らを幽閉します。
ーー1566年(46歳)ーー
上野国の箕輪城を攻め落として、西上野を掌握します。
ーー1567年(47歳)ーー
信玄に謀反を起こそうとした武田義信を自害させます。
戦国の世は親子でも場合によっては生きるか死ぬかの選択となるんですね・・・
ーー1568年(48歳)ーー
徳川家康と共に駿河国に侵攻。
今川氏真を攻めて駿河国を一時的に平定します。
そして、今川氏真・北条氏政の軍勢と駿河国にある薩垂峠(さったとうげ)で激突することになります。
ーー1569年(49歳)ーー
徳川家康が北条氏康と同盟を結びます。
そして、さらに北条氏康が上杉謙信とも同盟を結んだだめ、武蔵国と相模国へ侵攻します。
小田原城を攻めますがうまくいかず、そのまま甲斐国に向かい、相模国の三増峠の戦にて、北条軍を打ち破ります。
ーー1570年(50歳)ーー
打ち破った北条氏が撤退したため、駿河国を併合します。
ーー1572年(52歳)ーー
当時の将軍、足利義昭は織田信長の傍若無人ぶりに嫌気がさしていて、信長を討ち取ろうとしていました。
義昭からのこうした呼びかけが信玄にもかかり、打倒信長を目指して、信玄は大軍で信長の元に赴きます。
途中、三方ヶ原の戦で徳川家康に圧勝しそのまま進軍します。
徳川家康について気になる方はこちらまで♪→「5分で分かる徳川家康」)
ーー1573年(53歳)ーー
三河国の野田城にて持病が悪化してしまいます。
このため、いったん甲斐国に引き返すことになります。
そして、引き返している途中、信濃国の伊那の駒場で永眠することになります。
享年53歳。
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◆武田信玄と上杉謙信との関係 ~ 川中島の戦い
武田信玄のライバルとして有名な上杉謙信。
「越後(新潟)の龍」という異名を持つ謙信。
一方の信玄は「甲斐(山梨)の虎」。
信玄と謙信の関係はどのようなものだったのでしょうか?
そしてなぜ彼らは敵対して、戦わなければならなかったのでしょうか?
ではこれから見ていくことにしましょう(*゚▽゚*)
武田信玄と上杉謙信は「川中島の戦い」で合戦をしています。
なんと計5回もこの「川中島の戦い」は繰り広げられました。
この戦いの目的は、信濃(長野)北部の支配権を得るために争った合戦です。
甲斐(山梨)を治めた信玄は、信濃(長野)への勢力拡大を図ることになりますが、信玄に抵抗した地元豪族である村上義清と高梨政頼は謙信に頼ってきます。
謙信も信玄同様、信濃が欲しかったのです。
将軍がいる京都に地理的に近い信濃を得ることができれば、天下統一に向けての足かけとなります。
信玄を追い払って、信濃を手に入れることができれば、村上と高梨に信濃の領地を分けて、その残りの領地は謙信のものにしようと計画していました。
そして、謙信は村上義清と高梨政頼に協力して遠征します。
一方の信玄も協力的な豪族を味方につけて遠征し、信玄と謙信は川中島を挟んで合戦を繰り広げることになりました。
さて、5回もこの「川中島の戦い」はありましたが、最終的にどちらが勝ったのでしょうか?
勝敗は五分五分だったそうです。
ただし、これは実際の戦闘における勝敗であり、この戦いによって得た成果としては信玄に分があるようです。
というのも、この戦の後、川中島周辺の土地は信玄が領することになったからです。
事後も含めた戦略としては信玄が勝っていたと言えそうです。
(上杉謙信について気になる方はこちらまで♪→「5分で分かる上杉謙信」)
良きライバルとも言える信玄と謙信。
この2人は戦国時代によく見られる領地争いのために幾度となく合戦をしましたが、人間関係はどのようなものだったのでしょうか?
いろんな説がありますが、主なものをご紹介します(*゚▽゚*)
————-
・実は友情があったかも・・とする説
信玄も謙信もお互いの強さは認め合っており、何度も合戦を重ねていくうちに一種のライバル意識を越えた友情のようなものを感じていたのでは・・と言われています。
しかし、実際に2人がじっくりと話し合ったことはなく、川中島の戦いでのみ両者は顔を合わせているだけです。
もしゆっくりと話し合う機会があれば、共通する思いを共有したりして、何らかの友情のようなものが芽生えていたのかもしれません。
・謙信が信玄を嫌っていた・・とする説
信玄が父である信虎を追放したり、謙信の配下にいる武将を反乱を起こさせるように仕向けたりしたので、このような行為について謙信の道徳観にそぐわなかったため、謙信が信玄をきらっていた・・・とのことですが、当時はこのようなことは当たり前のようにされていたのであまり説得力がない説となります。
・謙信が実は女性で信玄が惚れていた・・とする説
上杉謙信は、なんと女性だったのでは?という説もあります。
謙信が婦人病の「大虫」であったことや、スペイン国王フェリペ二世宛に送られた書簡に謙信が「上杉景勝の叔母」(景勝は謙信の養子)と記述されていたので、このような説があります。
もし真実であれば、歴史がひっくり返りますね。。|゚Д゚)))
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良きライバルの信玄と謙信ですが、もしかしたら彼らはお互いに尊敬し仮に敗れても悔いなし!という思いでお互いに合戦に臨んでいたかもしれませんね(*゚▽゚*)
地元の甲斐をこよなく愛し、家臣や領民を大切にし、百戦錬磨とも言える合戦の天才であり、自国の法律まで制定した武田信玄。
ますます私は信玄のファンになってしまいました(*゚▽゚*)
以上で5分で分かる武田信玄を終わりたいと思います。
最後までおつきあいいただきまして、ありがとうございましたm(_)m
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