徳川家康の年表や関ヶ原の戦い&大坂の陣や天下統一等を5分で紹介♪
今回の記事では徳川家康についてご紹介したいと思います。
徳川家康といえば天下統一を果たして、何百年もその体制を維持した江戸幕府を開いた武将として名高いです(*゚▽゚*)
おそらく、日本人であれば知らない人がいないと言っても過言ではないほどの有名な戦国武将ですね。
織田信長や豊臣秀吉と並ぶ戦国時代の代表的な三英傑(さんえいけつ)の一人である家康は、ドラマや映画、小説にも数多く登場して、その都度、重要な役割を担っています。
最近話題になったドラマ「信長協奏曲」でも信長の同盟者として家康は登場しています。
(「信長協奏曲」について気になる方はこちらまで♪→「「信長協奏曲」のあらすじ&ネタバレ」)
では、そんな戦国時代の武将の中でも名高い徳川家康について、生涯の年表や、関ヶ原の戦い、大坂の陣や天下統一などについてざくっと5分でご紹介したいと思います。
◆徳川家康の年表
早速、徳川家康の生涯の年表について見ていくことにしましょう(*゚▽゚*)
ーー1542年(0歳)ーー
三河国(愛知)の小大名の松平広忠の嫡男として、誕生します。
ーー1548年(6歳)ーー
尾張(愛知)の織田信秀(織田信長の父)の人質になります。
(この後、いったん人質交換で開放されますが、今度は駿河(静岡)の今川氏の人質となってしまいます)
ーー1560年(19歳)ーー
桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に破れてしまいます。
いったん家康は今川が管理していた岡崎城に入城し、機を待ちます。
ーー1562年(21歳)ーー
織田信長と同盟を結びます。
(織田信長について気になる方はこちらまで♪→「5分で分かる織田信長」)
ーー1564年(23歳)ーー
三河の一向一揆を平定します。
ーー1570年(29歳)ーー
姉川の戦いで織田軍は浅井・朝倉氏を破ります。
徳川軍は勝利に大いに貢献します。
ーー1572年(31歳)ーー
三方ヶ原(みかたがはら(静岡))の戦いにて、戦国有数の武将、武田信玄に大敗します。
この時の自戒の意味も込めて、意気消沈した家康自身の顔を描かせたのがこちらです。
(武田信玄について気になる方はこちらまで♪→「5分で分かる武田信玄」)
ーー1573年(32歳)ーー
武田信玄が遠征している途中で帰らぬ人となります。
ーー1575年(34歳)ーー
三河に武田信玄の息子である勝頼が攻めてきたので、織田信長に援軍を頼みます(長篠の戦い)。
信長は3000丁もの鉄砲で、武田の騎馬隊を討ち破ります。
ーー1582年(41歳)ーー
織田信長の家臣、明智光秀が謀反を起こし、本能寺の変が勃発。
信長が自害します。
(本能寺の変については「本能寺の変の謎、黒幕は誰だ?」をどうぞ)
(明智光秀について気になる方はこちらまで♪→「5分で分かる明智光秀」)
ーー1584年(43歳)ーー
小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いにて、豊臣秀吉と1年に及ぶ長期戦を展開しますが、最終的に家康は敗れます。
(豊臣秀吉について気になる方はこちらまで♪→「5分で分かる豊臣秀吉」)
ーー1586年(45歳)ーー
豊臣秀吉と和睦し、秀吉の家臣(かしん=けらい)となります。
ーー1590年(49歳)ーー
豊臣秀吉配下の元、5大老の一人として就任します。
ーー1598年(57歳)ーー
豊臣秀吉がこの世を去ります。
ーー1600年(59歳)ーー
関ヶ原の戦いにて、東軍の家康と西軍の石田三成が戦います。
結果、東軍の家康が西軍の石田三成達を破り、この勝利により家康は事実上、天下統一を果たすことになります。
ーー1603年(62歳)ーー
征夷大将軍に任官し、武家政権である江戸幕府を開きます。
ーー1614年~1615年(73歳、74歳)ーー
大坂冬の陣、夏の陣が勃発。
幕府を開いた家康にとって、目の上のたんこぶだった豊臣家の存在。
徳川家安泰のために、家康は、大坂冬の陣と夏の陣で豊臣家に攻め入ります。
冬の陣では、真田幸村(真田信繁)の大活躍によって豊臣側が善戦します。
その後の夏の陣でも再度、真田幸村の活躍により苦戦しますが、最終的には家康は豊臣家を滅ぼします。
この大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした直後に、家康は諸大名を伏見城に集めて「武家諸法度」を発布しました。
これは、諸大名を統制するために制定したものです。
また「禁中並公家諸法度」も制定し、天皇に対して、政治に無関係の学問や和歌等の修業をすすめたりして、天皇や公家等の朝廷を統制しました。
(真田幸村について気になる方はこちらまで♪「真田幸村が5分で分かる!」)
ーー1616年(75歳)ーー
家康は病気で帰らぬ人となります。
・・・
以上が徳川家康の生涯のざくっとした年表となります。
次に、家康の生涯でも大きな出来事である「関ヶ原の戦い」「天下統一」「江戸幕府」について見ていきましょう。
◆関ヶ原の戦い~天下統一~江戸幕府を開く
◎関ヶ原の戦いの序章
秀吉が健在の頃から豊臣家の内部では人間関係で分裂が起きていました。
石田三成を中心とする官僚派と、実際に合戦で戦っている家康を中心とする武断派との間で対立が発生していました。
秀吉没後、家康はそれまで禁止されていた各地の大名や家臣への領地の授与などを独断でするようになります。
この行為は、石田三成からかなり非難されましたが、実は周りの諸大名にとってはこの家康の行為はありがたいものでした。
というのも、実は石田三成は周りの武将たちからは嫌われていたのです。
この石田三成は、秀吉の側近で合戦に行くこともなく、官僚という立場でした。
また温情などは顧みず、事実をありのまま秀吉に報告していたので処罰を受けた武将も少なくありませんでした。
秀吉亡き後は、同じ武断派の家康が直接、領地を分けてくれたり、婚姻の世話などをしてくれるようになって、武将たちもやりやすくなったのです。
このように官僚派と武断派の対立がありましたが、前田利家が仲裁していたので、大きなトラブルには発展しませんでした。(前田利家も家康の行動にはかなり批判的でした)
しかし、前田利家が病死してしまい、その後はこの2つの派閥の対立は制限がきかないものになります。
その後、加藤清正、福島正則たちが内部でクーデターを起こし、石田三成を襲撃します。
結果的に三成を失脚に追い込みます。
◎いよいよ関ヶ原の戦いへ
そして、五大老の一人の上杉景勝(かげかつ)が領国の会津(福島)で戦の準備をしているという情報を家康は聞き、景勝に対して事の経緯を説明するように命じますが、景勝がこの要求を拒否したため、これを謀反と見なした家康は、上杉征伐(会津征伐)のため、軍を率いて大阪城を出発しました。
一方、石田三成は家康の軍勢がいなくなったため、五大老の毛利輝元を総大将として、各大名を味方として集めます。
そして、家康はこの三成の動きを知り、家康率いる東軍と三成率いる西軍が、最終的に関ヶ原(岐阜)にて決戦する形となりついに関ヶ原の戦いが繰り広げられたのです。
西軍の小早川秀秋の寝返りによって大きく東軍有利となり、最終的には東軍が圧勝します。
◎ついに天下統一し、江戸幕府を開く!
関ヶ原の合戦で家康側の東軍が勝利した結果、石田三成たちは亡き者にされて、豊臣秀頼は単なる大名に下落し、徳川家の天下統一が確立することになります。
この後、家康は朝廷より征夷大将軍に任命されて、江戸幕府を開くことになります。
しかし、この2年後、なんと家康は将軍職を息子の秀忠に譲ります。
こうすることにより、名実ともに将軍職を徳川氏が引き継いでいくことを全国に知らしめたのです。
そして、家康自身は駿府(静岡)に行って、そこで実質上、政治の実権を握ることになります。
この江戸幕府はこの後なんと260年も続く事になるのです・・・
◆大坂の陣
大坂の陣は、家康にとって目の上のたんこぶであった豊臣家を滅ぼすためのものでした。
大坂冬の陣と夏の陣があります。
ではまず冬の陣から見ていきましょう。
◎大坂冬の陣
関ヶ原の合戦で家康は勝利し、豊臣家は単なる一大名へと転落して、徳川家の天下統一が確立します。
しかし、豊臣家にはまだ大阪城があり、財産や武力などが温存していたため、家康にとっては油断大敵な存在でした。
そして、家康はある作戦を実行します。
豊臣家が再建していた方広寺の鐘に刻まれた文言が徳川家を貶めている!と難癖をつけて、家康は豊臣家を挑発します。
豊臣家は弁明しますが、家康は淀殿の人質まで要求し、豊臣家は堪忍袋の緒が切れて、挙兵の準備をします。
ここに徳川家と豊臣家が衝突して、大坂冬の陣が起こります。
この戦いでは、真田幸村(真田信繁)が大活躍をして、家康側は苦戦を強いられます。
この戦いでは決着はつかず、家康は豊臣側に和議を持ちかけます。
(真田幸村について気になる方はこちらまで♪「真田幸村が5分で分かる!」)
◎大坂夏の陣
豊臣家がこの和議を検討している最中に、家康は大阪城内へのトンネルを掘ったり、大砲を打ち込んだりして、豊臣側に対して揺さぶりをかけます。
最終的に豊臣側は家康からの和議に応じます。
家康が提案した講和の条件は、大阪城の外堀だけを埋めることだったため、この条件を豊臣家はのみます。
そして、翌日から家康軍は外堀を埋め始めていくのですが、約束の外堀だけではなく、二の丸、三の丸とどんどん埋めていきました!
慌てた豊臣側ですが時すでに遅く、大阪城の周りの掘が埋め尽くされてしまったのです!
豊臣側は堀の一部を掘り返し、軍隊の食糧を大阪城に運んで、戦備のため浪人を雇い入れますが、家康は、秀頼の地方への退却か、大阪城の浪人の解雇かどちらかを選べと最終通告を出します。
豊臣側はこれを飲まずに、家康が攻撃を開始し、大坂夏の陣が勃発します。
この戦いでも、冬の陣同様、真田幸村が大活躍します。
たった3000ほどだった真田隊は、13000もの兵を率いる家康の孫、松平忠直隊をなんと撃破して、ついに家康の本陣に突入したのです《゚Д゚》
この時の戦いで、真田隊は、家康の本陣を2度も攻撃します。
そして、なんと家康本陣を12キロも後退させたそうですΣ(゚д゚lll)
ものすごい勢いですね・・・
真田隊は、兵隊の数では4倍もの兵力を誇る軍勢を相手にここまで撃破したということです!
しかし、3度目の突入では真田隊はさすがに力尽きてしまい、真田幸村は槍で討ち死にしてしまうのです・・
(真田幸村について気になる方はこちらまで♪「真田幸村が5分で分かる!」)
豊臣側は最終的に徳川軍に追い込まれ、燃える大阪城にて秀頼と淀殿は自害します。
豊臣家は秀吉から数えてたった2代で終わりを告げ、これにより徳川家を脅かす存在がなくなって、徳川幕府はその後260年も続いていくことになるのです・・・
・・・
以上が徳川家康の年表や関ヶ原の戦い、大坂の陣や天下統一等の5分で分かる家康の紹介でした。
戦国の三英傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)の1人である家康は、まさに有名な俳句である「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」のとおりに生きた武将と言えますね。
また次の歌もあります。
「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは家康」
織田信長が天下統一のための下準備をして、羽柴(豊臣秀吉)が天下統一を果たし、その後は待っていた家康が天下を手に取りじっくりと味わった・・ということです。
信長や秀吉のように派手ではなかったけれど、家康は着実に用意周到にしつつ、機が熟すのを待って、最終的に長きに渡る徳川家の支配体制を築いたのです。
最後までおつきあいいただきまして、ありがとうございましたm(_)m
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