真田幸村 (信繁) 真田丸の大坂冬の陣・夏の陣の伝説等を5分で紹介!

2017年7月23日

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今回の記事では、真田幸村(信繁)についてご紹介したいと思います。

真田幸村(信繁)といえば、大坂冬の陣、夏の陣にて豊臣陣営で大活躍をし、敵の徳川軍勢を最も震え上がらせた名高い戦国武将です。

この真田幸村(信繁)は、大変人気のある武将であり、今まで数多くの映像作品が制作されてきました。

例えば、映画では「風雲急なり大阪城 真田十勇士総進軍」が1957年に公開されたり、少し後の1979年には「真田幸村の謀略」という作品も公開されました。

また、テレビドラマも数多く放送されています。
ABCの「風雲真田城」(1964年)やTBSで「真田幸村」(1966年)、NHKで「真田太平記」(1985年)、テレビ東京で「風雲!真田幸村」(1989年)「家康が最も恐れた男 真田幸村」(1998年)などが製作・放送されました。

また、2016年のNHK大河ドラマでは、堺雅人さんが主演で真田幸村を務める「真田丸」が放送されます(*゚▽゚*)

このような形で多くの人たちに愛されて止まない戦国武将、真田幸村(信繁)。

そんな真田幸村(信繁)について、生涯の年表や、真田丸の大坂冬の陣・夏の陣での伝説等などについてざくっと5分でご紹介したいと思います。

~目次・・真田幸村 (信繁) 真田丸の大坂冬の陣・夏の陣の伝説等を5分で紹介!~

◆真田幸村(信繁)の年表

◆関ヶ原の戦いについて

◆真田丸の伝説が生きる大坂冬の陣

◆大坂夏の陣

◆真田幸村(信繁)の年表

では、早速、真田幸村(信繁)の生涯の年表を見ていくことにしましょう(*゚▽゚*)

真田幸村0

「真田幸村(信繁)」

ーー1567年(0歳)ーー
武藤喜兵衛昌幸の次男として誕生します。
(父親は真田幸隆の三男)

ーー1573年(6歳)ーー
武田信玄が、三河から軍勢を率いて帰っていましたが、途中で病没してしまいます。

(武田信玄について気になる方は「5分で分かる武田信玄」まで♪)

ーー1582年(16歳)ーー
武田家最後の武将、武田勝頼が、甲斐国の田野で武田一族と共に自害。
これにて武田家は滅亡します。

ーー1585年(19歳)ーー
幸村の父親、昌幸が、真田家と敵対関係にあった越後の上杉家と同盟を結びます。
交換条件として、幸村は人質として上杉家に行くことになります。

ーー1590年(24歳)ーー
幸村、24歳にして初陣を飾ります。
まず、父親の昌幸、長男の信幸(信之)、幸村、そして前田利家、上杉景勝たちと共に小田原城攻めに参戦します。
また、昌幸たちはその後、松井田城を攻略することに成功します。
この松井田城攻略が、幸村の初陣となったのです。

豊臣秀吉の奥州出陣にも、昌幸、信幸(信之)、幸村の真田家は参戦しました。

(豊臣秀吉について気になる方は「5分で分かる豊臣秀吉」まで♪)

ーー1592年(26歳)ーー
秀吉の朝鮮出兵に昌幸、信幸(信之)、幸村の真田家は参戦します(文禄の役)

ーー1598年(32歳)ーー
豊臣秀吉がこの世を去ります。

ーー1600年(34歳)ーー
徳川家康と共に真田親子(昌幸、信幸(信之)は、会津の上杉景勝の討伐のために関東に向かいますが、
途中、石田三成が大阪で挙兵したため、家康は関ヶ原に向かいます。
この後、昌幸と幸村は石田(豊臣)方につき、信幸(信之)は徳川方に残ります。

その後、徳川秀忠が、昌幸と幸村がいる上田城を攻撃します(第二次上田合戦)。
秀忠はこの城を落とすことができずに、いったん攻撃を止めて
そのまま進軍したのですが、関ヶ原の合戦には間に合いませんでした。

関ヶ原の合戦によって、最終的に徳川方の東軍が圧勝し、家康は事実上、
天下統一を果たすことになります。

(徳川家康について気になる方は「5分で分かる徳川家康」まで♪)

敗戦した西軍の昌幸と幸村は、死は免れて、高野山麓にある九度山に配流されます。

ーー1611年(45歳)ーー
九度山にて父親の昌幸が病死します。

ーー1614年(48歳)ーー
10月、豊臣家と徳川家が衝突して、大坂冬の陣が勃発します。

幸村は、大坂城の玉造口に出城の「真田丸」を築き、嫡子の大助たちと共に豊臣家を守ります。
東軍は、この真田丸を攻めるのですが、幸村は鉄砲隊を駆使して、これを阻止しました。

年末も押し迫る12月、徳川方の東軍と豊臣方で和議が成立して、冬の陣は収束します。

ーー1615年(49歳)ーー
2月、和議の条件として、徳川陣営は真田丸を破壊します。

4月、大坂夏の陣が勃発します。

道明寺の戦いで、幸村側の名将、後藤又兵衛、薄田隼人たちが討死してしまいます。
そして、幸村は、伊達政宗隊と交戦します。
後日、幸村は、嫡子の大助を大坂城に送って人質として、豊臣秀頼の出馬を願いますがこれは果たせませんでした。

その後、幸村は、家康の本陣へ強引に突撃します。
一時的に家康の本陣近くまで攻め入りますが、最終的に幸村は討死することになります・・

・・・

以上が真田幸村(信繁)の生涯の年表となります。

次に、真田幸村(信繁)の生涯の中でも大きな出来事である関ヶ原の戦い、真田丸の伝説が生きる大坂冬の陣、大坂夏の陣について詳しく見ていくことにしましょう。

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◆関ヶ原の戦いについて

豊臣秀吉の没後、家康と石田三成は対立していました。

前田利家がなんとか仲裁役として動いていたのですが、利家没後、家康と三成の確執がますます強くなります。

その後、加藤清正と福島正則たちが内部クーデターを起こして、三成を襲撃します。
結果的に三成は失脚してしまいました・・・

五大老の一人である上杉景勝(かげかつ)が、会津で戦の準備をしている!という噂を家康は聞きます。

家康は、景勝に事の経緯を説明するように指示しますが、景勝はこれを拒否しました。
このため家康は、上杉征伐(会津征伐)のため関東に向かいます。
真田親子(昌幸、信幸(信之)、幸村)も家康と共に行きました。

その後、石田三成が大阪で挙兵します。

昌幸たちがいる下野犬伏の陣に、石田三成からの密使が到着します。
三成は家康を討つために共に戦おう!と誘ってきたのです。

真田家で話し合い、父親の昌幸と幸村は石田(豊臣)方につきます。
長男の信幸(信之)は徳川方に残ることにします。

信幸(信之)は、家康の家臣である本多忠勝の娘と結婚していたためです。

ここで真田父子は、東軍(徳川方)と西軍(石田・豊臣方)に別れることになります。

真田親子(昌幸、信幸(信之)3

「話し合う真田親子(昌幸、信幸、幸村)」

この石田三成の挙兵により、家康は会津征伐を中断して、急遽、関ヶ原に向かいました

そんな中、徳川秀忠が、昌幸と幸村がいる上田城を攻撃します(第二次上田合戦)。

激しい攻防戦となりますが、秀忠はなかなかこの城を落とすことができなかったため、
いったんあきらめてそのまま進軍したのですが、関ヶ原の合戦には間に合いませんでした。

一方、東軍(徳川方)と西軍(石田・豊臣方)による関ヶ原の合戦は開始され、
西軍の小早川秀秋の寝返りにより、東軍が形勢有利となって、最終的には徳川方の東軍が圧勝しました

その後、敗戦した西軍の昌幸と幸村は、高野山麓の九度山に配流されることになります。

九度山

「高野山麓の九度山近辺」

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◆真田丸の伝説が生きる大坂冬の陣

関ヶ原の合戦で徳川方は勝利し、豊臣家は単なる一大名へと転落してしまいます。

事実上、徳川家の天下統一が確立したのです。

とは言うものの、そんな豊臣家にもまだ立派な大阪城があり、財力や武力なども保有していたので、徳川家にとっては目の上のタンコブ的存在だったのです・・・

そんな中、家康は巧妙な手口を使って、豊臣家を挑発します。
この頃、豊臣家が再建していた方広寺の鐘には、いくつかの文言が刻まれていたのですが、この文言によって徳川家を貶めていると難癖をつけたのです。

豊臣家はそんなことはない!と弁明したのですが、家康はなんと淀殿の人質まで要求してきたのです《゚Д゚》

この家康の横暴ぶりに、豊臣家はさすがに堪忍袋の緒が切れて、挙兵の準備を開始したのです!

ここに徳川家と豊臣家が衝突して、大坂冬の陣が起こります。

豊臣家は、諸国の浪人を集めるべく声をかけました。
そんな中、幸村も密使を受けて参戦を求められたのです。
この依頼を受けて、幸村は高野山麓の九度山を出て、嫡子の大助と一緒に大阪城に立てこもりました。

大坂城は川に囲まれていたのですが、南の方だけが平坦な大地になっていて、
敵からの攻撃を阻止するには手薄な状態でした。

これを改善すべく、幸村は大坂条の南方の玉造口に出城を築いたのです。

これが「真田丸」です。

真田丸e

「真田丸」

東軍は、この真田丸を攻めてきたのですが、幸村は鉄砲隊を駆使してうまく采配し、この攻撃を見事に阻止したのです。

年末も押し迫る12月に徳川方の東軍と豊臣方で和議が成立して、この冬の陣はいったん収束することになります。

幸村と大助は、大坂城に居続けました。

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◆大坂夏の陣

家康側は、使者として、叔父の真田信伊を幸村の元に送り、徳川方に寝返るように促します。

十万石もの領地や大名という地位を授ける!という条件つきだったのですが、幸村はこれを拒否しました。

一方で家康側は、和議の条件に従って、まずは、真っ先に真田丸を破壊しました。

220px-Sanada_Yukimura_Demarujō_Site

「真田丸跡」

そして、大坂城の外堀を埋めていったのですが、その次に和議の条件ではない二の丸、三の丸についてもどんどん埋めていったのです!

この事態に慌てた豊臣側だったのですが、気づいた時にはすでに遅く、大坂城の周りの掘がなんと埋め尽くされてしまったのです・・・《゚Д゚》

そんな中、家康は、豊臣秀頼が地方に退却するか、もしくは大坂城に籠城している浪人を解雇するのか、どちらかを選べと打診してきました。

豊臣側はこの家康の提案を拒否したため、家康が攻撃を開始し、大坂夏の陣が勃発したのです。

大阪城2

5月6日の道明寺の戦いで、濃霧のために幸村率いる真田隊の戦場への到着が遅れてしまい、なんと豊臣方の名将、後藤又兵衛、薄田隼人たちが討死してしまいます。

そのような中、幸村は鉄砲隊を巧みに采配し、伊達政宗隊と交戦しました。

翌5月7日、幸村は、豊臣方の形勢を挽回させるために大将の豊臣秀頼が出陣することが何よりも先決と考えます。

そして、嫡子の大助を大坂城に送って人質とし、秀頼の出馬を願うのですが、この願いは果たされませんでした。

真田隊は3000ほどの兵力でした。

一方の家康側は13000もの兵力を率いていたのです《゚Д゚》

そんな圧倒的に不利な状況でしたが、幸村は、毛利勝永と共に家康の孫の松平忠直隊を撃破して、家康の本陣に突入したのです!

この時の戦いで、真田隊は、家康の本陣を2度も攻撃し、家康本陣をなんと12キロも後退させたのですΣ(゚д゚lll)

しかし、3度目の突入ではさすがに真田隊は力尽きてしまって、最終的に幸村は槍で討ち死にしてしまったのです・・

合戦1a

その後、豊臣側は徳川軍に追い込まれてしまい、燃える大阪城で秀頼と淀殿は自害します。

こうして、豊臣家は、1代目の秀吉からたったの2代で終わりを告げて、その後、徳川幕府は260年も続いていくことになるのです・・・

こうして、真田幸村 (信繁) は49年という波乱の人生を全うしました。

最後は大坂夏の陣にて、豊臣家と共に散った幸村ですが、その人生は最後の最後まで自分の信念を貫き通した「武将の人生」だったんですね。

だからこそ、後世まで語り継がれ、現代でも多くの戦国ファンを魅了し続けているんだと思います。

以上が真田幸村(信繁)の生涯の年表、そして大坂冬の陣・夏の陣の伝説等などの5分で分かるご紹介でした。

真田幸村5

「長野県上田市の「真田幸村像」」

最後までおつきあいいただきまして、ありがとうございました。
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